2020年 11月 12日

第一回「フランス食べ歩き紀行」

「とりあえず、生ビール!」

パリに住み始めて二週間ほどたった頃だろうか。当初は美しい街並みや行き交う人々に目を奪われていたが、徐々にそうした「おのぼりさん」の時期を過ぎつつあった。あれこれと書類を作ったり、部屋を掃除したり、大使館へ行ったり。事務的な作業やこまごました用事で時が過ぎてゆくのがだんだん苦痛になってきた。パリジャンとパリジェンヌによる早口のフランス語にもなかなか慣れない。こういうときに日本だとあのお店に行っていたっけなぁ、あいつは今頃どうしてるだろうなぁ、などと思い出してはホームシックになる。気力回復のためにちょっとした気晴らしが必要だ。よし、ちょっと飲みに出かけてみよう!

しかし弱った。街でよく見かけるビストロやワインバーなんて、まだ入ったことがない。さりとておひとり様でレストランは敷居が高い。薄汚い店はなんとなく怖いし、きれいな店は高級そうで入りづらい。こういうときにインターネットで調べるのも、どうも気が進まない。どういうお店がいいのか皆目見当もつかないけれど、酒飲みの勘にしたがって近所の店に入ってみる。

それはトラムの駅の目の前にある小さなバーだった。小雨が降っていたこともあるのだろうか、薄暗い簡素な店内にはカウンターのお客が一人きり。もう少しガヤガヤしていれば目立たずに済んだのだろうが、ガラスの扉を開いた瞬間に店員はみな振り返る。「Bonjour(いらっしゃいませ)」。

三つ四つある小さなテーブル席のうちの一つに腰かけると、店員が即座にメニュー表を持って来てくれるが、こういうときに日本なら迷わず言っていた、あのセリフがわからない。そう、「うーん、とりあえず生ビール」である。

ふと、カウンターのおじさんがもぞもぞと注文を発している。あれを真似しよう! 目が合った店員にビールを「Une pinte(ワンパイント)」くださいと伝えると、生ビールを大きなグラスに注いで持って来てくれた。これだと膝を打った僕は、無事その日の飲酒に成功。その後のフランス滞在期間中、幾度となくこの言葉を発したのであった。のちにこのバーにもたいへんお世話になるのだが、それはまた別の機会に。

◇ ◇ ◇

生ビールを辞書で引けば「bière à la pression(気圧をかけたビール)」と出てくるが、あまり街なかでこの言葉を聞いたことがなく、「pression」だけで通じることが多い。ただフランス人はこの言葉さえ使わずに、ビールを注ぐグラスのサイズだけで「Une pinte」とか「Un demi(ハーフパイント)」と注文するようだ。複数の種類が選べる場合には注文時に銘柄も言わなければならないが、たいていの店にはフランスを代表するビールである「1664」が置いてある。選ぶのが面倒ならばそれを頼めばいい。ちなみに発音は年号と同じく「seize soixante-quatre」だが、略して「seize」だけで通じる。

 ちょっとましなお店だとベルギービールも置いてあるが、たいてい「Leffe(レフ)」であるように思う。日本では高級なビールとして展開されているが、ベルギーやフランスではかなり一般的で種類も豊富である。日本でいうエビスビールくらいの位置づけだろうか。

また、最近では日本の銘柄、とくにアサヒやキリンのビールを出すところもあって、スーパーでもわりとよく見かけるようになった。僕の個人的な体験だが、電車のなかで日本ビールのどの銘柄がうまいかを議論しているフランス人カップルに出会ったことさえある。ただそうはいっても日本食のお店で出されることがほとんどであり、まだまだ値段が高いというのが現状である。

甘い香りのフランスビールとキリっとした喉ごしの日本ビール、どちらもそれぞれ個性があってうまい。またいつか両方飲めるバーで盃を傾けながら、日仏の酒飲み談義に花を咲かせたいものだ。注文はもちろんワンパイントで。

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この記事を書いた人
松葉 類

松葉 類

大学講師。専門は現代フランス哲学。 共著に『現代フランス哲学入門』(勁草書房)、訳書にF・ビュルガ著『猫たち』(法政大学出版局)、M・アバンスール著『国家に抗するデモクラシー』(法政大学出版局)がある。