第12回(最終回)「フランス食べ歩き紀行」

「バーカウンターで飲もう!」

生ビールの注文にも慣れ(このコラムの第1回を参照のこと)、店で酒を飲むことに抵抗がなくなってきた。ならばもはや、やることはひとつ。飲み歩きである。

友人と連れ立って、良さそうなブラッスリー(brasserie)やワインバー(bar à vin)に行って、ただただ飲むというのをやってみる。別に高いものを頼むでもなく、お腹を膨らませるでもなく、そのお店とお客のかもしだす雰囲気を楽しみに行く。だまって飲む人はあまりおらず、誰もが誰かと喋りまくっている。妙齢の女性が二人、身振り手振りをつかって全身で恋人の愚痴をぶつけ合っていたり。友人同士、さっき見た映画の話をしていたり。かなり年齢差のある怪しげなカップルが、こっそり耳打ちしながら笑い合っていたり。デキャンタのワインやワンパイトのビールを机の上に据えて、たいてい天気のいい日はこういうお客がテラス席を埋め尽くす。一応おつまみも頼むけれど、チーズやハムがカラカラに干からびるまで世間話に花が咲くことが多い。

店内のカウンターはといえば、常連客の指定席だ。店内で楽器の演奏がある場合や、気取らない下町のバーなんかには、いつからそこに居たのかわからないような、赤ら顔のおじいさんが居たりする。彼らは上機嫌なので誰彼構わず、まわりの人に話しかける。一目で外国人とわかる僕らなんかにもどんどん話しかけてくる。

あるとき出会ったおじさんの思い出話をしよう。赤ワインのボトルをひとりで傾けていた彼は、いい気分で僕らに話しかけてきた。御多分に漏れず赤ら顔の髭面で、チェックのハンチングがよく似合っていた。昔ジャズピアニストになろうと思ってパリに来たんだ、と彼は言った。「でも結局あきらめた。今では演奏家というより、しがないピアノの先生だよ」。それをカウンター越しに聞いていた店員は、店のピアノを指さして促す。「じゃあ弾いてみたら(Allez-y, si vous voulez.)」。

おじさんは着ていたコートをスツールに置くと、古いピアノの前に腰かけた。トントン、と音を確かめると、彼は曲名のわからないラグタイムを弾き始めた。あんまり調律の整っていないピアノだったけれど、それでもちゃんと美しい音色を奏でていたように思う。騒々しかった店内はしだいに静かになる。つっかえながらも一曲を弾き終わると、店内から自然と拍手が起きた。おじさんはそれに応えるように振り向くと、帽子を取っておじぎした。その後、店内のいろんなテーブルから声をかけられたせいで、彼がカウンターに帰ってくるまでには結構時間がかかった。ハーフパイントのビールで乾杯をすると、三人で少しジャズの話をした。その夜は何もかもがあまりにも自然で、僕らにとってとてもかけがえのないもののように思えた。

~~~~~

ただし、この話にはあまり美しくない続きがある。

その店はいわゆるオイスターバー(bar à huîtres)で、僕らは牡蠣を食べに来ていた。日本の刺身みたいなもので、フランス人は牡蠣の鮮度を何よりも大事にしていて、できれば海水でそのままいただくのが最高! とされている。僕たちもレモンを絞っただけの生牡蠣を、たしか三つずつ食べた。

その次の日、僕は激しい腹痛で目が覚めた。トイレに駆け込みながら思い出すのは昨日の生牡蠣。じつは以前、築地の生牡蠣に猛烈にあたったことがあって、それ以来すこしは警戒していたのだが、海外だし何とかなる、という謎の思い込みもあって久しぶりに口にしたのだ。そうすると、やあ久しぶりとばかりに襲ってくる、ひどい腹痛と発熱。もちろん、世界中どこに行ったって牡蠣は牡蠣だった。その日は一日中トイレとベッドを往復しながら、二度と生牡蠣は食うまいと固く心に誓ったのだった。

この記事を書いた人
松葉 類

大学講師。専門は現代フランス哲学。 共著に『現代フランス哲学入門』(勁草書房)、訳書にF・ビュルガ著『猫たち』(法政大学出版局)、M・アバンスール著『国家に抗するデモクラシー』(法政大学出版局)がある。

関連記事

訪日外客数(2024 年 1 月推計値)
毎月、日本政府観光局から訪日外国人外客数が発表されます。2024年1月の訪日外国人の数は 2,688,100 人、コロナ禍まえ2019年1月とほぼ同数であった。ということは、訪日外国人旅行者はほぼコロナ禍前まで戻ったことにはなるが実際のところ全体の人数ではコロナ禍が起る2020年の一年前の数値までたどり着いたということになる。ただし、若干ショートしたその人……
第7回「フランス食べ歩き紀行」
「クスクスを腹いっぱい食べよう!」 渡仏したとき、いちばんに現地の友達と夕飯を食べることになった。久しぶりの再会だから「すわ、コース料理か」と意気込んでいたが、待ち合わせ場所はアルジェリア料理屋だった。クスクスを食べよう、というのだ。口にしたことはあるが、専門店でがっつり食べるのははじめて。促されるがままにクスクスと羊肉の煮込みのセットを頼んでみる。……
海外からの個人旅行解禁か!?
政府は8月24日(木曜日)新型コロナウィルスの水際対策のさらなる緩和に動いた。9月7日から日本への入国・帰国時に求める海外での出国72時間以内に受けた検査による陰性証明書の提出を条件付きで免除する(ワクチンの3回接種が条件のうちの一つ)。 今回の水際対策規制緩和は、旅行者の負担を軽くすると同時に感染対策と経済活動の両立を目指すと今朝に日経新聞朝刊に載……
第7回「イタリア映画よもやま話」
イタリア映画が始まります ゴールデンウィークに毎年イタリア映画祭が開催されている。イタリア映画好きにとっては、一年のうちの最重要イベントで、十本以上の新作映画がいっきに鑑賞できるのに加え、俳優や監督もゲストとして来日し、大いに盛り上がる。二年前までは。昨年のゴールデンウィークは、緊急事態宣言に伴い三月中旬の時点で映画祭の開催延期もしくは中止が発表され……